HISTORY
沿革
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創設者 岩田宙造弁護士の
ご紹介
岩田宙造弁護士は、明治8年(1875年)、山口県に生まれ、東京帝国大学を卒業後、政治家を志し、東京日々新聞(現在の毎日新聞)の記者になりましたが、養家の財政事情等のため政治家志望を断念し、弁護士の道に進むこととなりました。その後、貴族院議員、司法大臣(現在の法務大臣、昭和20年(1945年)8月17日就任)、日本弁護士連合会会長(昭和28年(1953年)4月1日就任)、学士会理事長など、政界、司法界、学界の各要職を歴任し、昭和41年(1966年)、死去しました。
岩田宙造の弁護士としての歩みは、明治35年(1902年)、築地に岩田宙造法律事務所を開設したことに始まります。その後、岩田宙造弁護士は、昭和6年(1931年)に勅撰貴族院議員に選任され、本格的に政治にも関係するようになり、太平洋戦争終戦直後の東久邇宮内閣に司法大臣として入閣し、引き続き幣原内閣においても、司法大臣として留任しました。この間、法曹改革面において、今日の法曹界の基礎をなす「法曹一元」を実現させるなど、日本の法曹界の革新に力を注ぎました。
晩年、岩田宙造弁護士は日本経済新聞社に「私の履歴書」を記したほか、代表的な著作としては、法制教科書(大日本図書・共著、明治35年(1902年)6月刊)、契約各論(東京法学院・明治36年(1903年)刊)などがあります。
弁護士であり政治家でもあった法曹界の巨星岩田宙造は、多磨霊園に眠っております。
(参考資料)
- 岩田宙造「私の履歴書」 日本経済新聞社
- 山根篤・加嶋五郎・伊達利知「岩田宙造」 法曹百年史
- 岩田春之助・伊達利知「岩田先生門下の人々」法律新聞888号
- 伊達利知「岩田宙造先生と私 具体的真実発見の方法と努力」自費出版
- 守屋典郎「岩田宙造」 日本の弁護士 日本評論社
- 大林清春「顧問会社の法律相談-岩田合同法律事務所」自由と正義34号
- 古川薫「惑星が行く」日経ビジネス
- 第一東京弁護士会編「われらの弁護士会史」第一東京弁護士会
岩田合同法律事務所 歴史概観
岩田合同法律事務所の歴史は、司法大臣や日本弁護士連合会会長を歴任した故岩田宙造弁護士が、明治35年(1902年)、築地に「岩田宙造法律事務所」を開設したことに始まります。以降、百有余年に亘る現在までの「岩田合同法律事務所」の歴史をご紹介します。
草創期
1902年~
丸の内での事務所開設
岩田合同法律事務所の歴史は、司法大臣・日本弁護士連合会会長・貴族院議員を歴任した(注1)岩田宙造弁護士(法学博士)が、明治35年(1902年)、築地に「岩田宙造法律事務所」を開設したことに始まります(以下、岩田宙造法律事務所時代の当事務所を「岩田事務所」といいます。)。
その後、明治39年(1906年)には、我が国初のオフィス街であり、当時「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱仲14号館(注2)に事務所を移転させ、旧丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に移転するまでの長い間、同地において、日本における企業法務を中心とする法律事務所の草分けとして、所属弁護士を増加させながら発展を遂げました。
(注1)昭和36年(1961年)には、一般財団法人国民政治協会の前身である財団法人国民協会の初代会長に就任しました。
(注2)三菱ビルに隣接する旧三菱重工ビル(現、丸の内二丁目ビル)の敷地が、三菱仲14号館の跡地です。
専門分野の確立
岩田宙造弁護士は、山口県熊毛郡立野村(後の周防村・現在の光市)で生まれ育ち、東京帝国大学英法科に進学しました。
岩田宙造弁護士は、同大学在学中、隣村(山口県熊毛郡束荷村)出身であった伊藤博文と親交を持つようになり、同人から経済的援助を受けるなどしながら政治活動に対する関心を深め、同大学卒業後には、伊藤博文から紹介を受けて新聞社に就職し見聞を広げることにします。
その後、岩田宙造弁護士は、もともと職業として最も関心の強かった弁護士に転身することとし、岩田事務所設立当初、銀行業務のほか、海上保険を中心とする海運関係の専門家になろうと考えました。
そこで、伊藤博文に、日本銀行と日本郵船への橋渡しを願い出ます。この大胆な申出が功を奏し、岩田宙造弁護士は両社の顧問として迎えられます。さらに、岩田宙造弁護士は、宮内省、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士にも就任しました。
海商法及び海上保険法を研究した岩田宙造弁護士は、「下関港における梅ヶ香丸白昼沈没損害賠償事件」「釧路港の竹の浦丸沈没保険金請求事件」などの解決に尽力し、海事審判の専門家として盛名を馳せるようになります。さらに、岩田宙造弁護士は、日本銀行の法律顧問として、銀行業務に関連する法律問題に関して多くの意見書(法律鑑定書)を作成しました。
その後、岩田宙造弁護士は、我が国の中央銀行のみならず、植民地下にあった台湾や朝鮮の中央銀行、現在の電力会社にあたる東京電燈等の有力企業からも意見書作成の依頼を受けるようになり、民・商事に関する法律鑑定は岩田事務所の有力分野となりました。
発展期
1925年~
判例法形成への寄与
大正末頃から、太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941年)頃にかけて、岩田宙造弁護士の名声と共に、岩田事務所はさらに大きな発展を遂げます。この間、我が国の政治・経済・社会は大きな転換期にありました。第一次世界大戦(大正3年、1914年)、昭和恐慌(昭和5年、1930年)、日中事変(昭和12年、1937年)の勃発などがあり、我が国は次第に軍国主義に傾斜していきます。
こうした時代背景の中、岩田事務所には数々の大事件の依頼があり、訴訟事件に関しては大審院判例として残されているものも多く、また、この頃には意見書(法律鑑定書)の依頼もさらに増加し、その一部は今日まで当事務所に保管されています(注1)。性質上これらをこの場で公開することはできませんが、中には、我が国の企業法務の歴史を作ったというべき重要なものが見受けられます。また、多くの若手弁護士が入所し、岩田宙造弁護士から直に指導を受けた門弟が最も多くなった時期もこの頃です。入所者の中には、日本初の女性弁護士の一人である中田正子弁護士(注2)もおり、岩田事務所に在籍して女性を対象とした法律相談を受け持つなどの活躍をしました。
民・商事一般の訴訟事件を多数受任したほか、久原財閥(久原房之助が日立鉱山などを基に形成したが、第一次世界大戦後の不況で苦況に陥った。)に関する債権債務処理の一切もこの頃受任しました。
さらに、日本統治下にあった台湾銀行の頭取から、昭和恐慌に際し本店を休業としないと背任が成立するのではないかとの相談を受けた際、岩田宙造弁護士は、「本店の営業を続けることが台湾銀行にとって利益になるのであれば背任にはならない。もし何かあれば、顧問弁護士の岩田の指示に従ったのみと答えればよい。」といった旨を助言し、結果として、台湾の混乱や役員の背任を回避したとされます(注3)。
このように、岩田事務所は、現在の企業法務における、いわゆる危機管理案件の先駆けとなるような事件を昭和初期から手掛けてきた歴史があります。
企業法務分野での活躍を拡大する一方で、弁護士会の関係でも、この頃、岩田宙造弁護士は重要な役割を果たしました。すなわち、現在、東京には三つの弁護士会があり、そのうちの第一東京弁護士会は、大正12年(1923年)、弁護士会に対する考え方を共有する当時の有力弁護士ら有志により東京弁護士会とは別に設立されたものですが、岩田宙造弁護士は有志の一員としてその設立に関わり、今でも、設立時の在野法曹の泰斗らとともに岩田宙造弁護士の胸像を第一東京弁護士会の会議室に見ることができます。
(注1)確認されるところでは、大審院判例は大正11年(1922年)から昭和10年(1935年)頃まで毎年2件ないし5件、法律鑑定書は少ない年でも年60件程度はありました。この一例として、昭和15年 2月21日大審院判決(再保険者と元受保険者による代位権行使)など判例百選に掲載されるような著名なものもありました。
(注2)昭和15年(1940年)に、明治大学女子部の同窓である久米愛、三淵嘉子と共に日本初の女性弁護士となりました。
(注3)『伊達利知回顧談 ききて岩田春之助 巨匠弁護士を語る』(伊達利知・岩田春之助)(1990・法律新聞社)242頁より。
日本初の女性弁護士のひとり
中田正子弁護士と岩田合同
法律事務所とのつながり
日本初の女性弁護士のひとりである中田正子弁護士は、昭和13年に司法試験合格後、弁護士試補の時代から昭和20年に鳥取へ疎開するまでの数年間、当事務所の前身である岩田宙造法律事務所に在籍していました。また、鳥取に疎開後も弁護士活動を続け、鳥取県弁護士会会長や日本弁護士連合会理事などを歴任しました。
中田正子弁護士による、在籍当時の岩田宙造法律事務所についてのコメントが残っています。
「昭和15年8月、三人は弁護士として開業した。私は弁護士試補時代に引き続き、丸の内の岩田宙造法律事務所にお世話になることになった。岩田先生はすでにそのころ弁護士会の長老であり、岩田事務所には先生のほか6人のそうそうたる弁護士がおられた。岩田先生は弁護士になったばかりの私にも、分相応の事務所の事件を担当させてくださった。先輩の他の弁護士の方々も仕事を分けてくださったり、実務にあたって弁護士に必要な心得等も教えてくださった。それらは今も私の役に立っている。
今にして思えば、当時は法律そのものが男女不平等であり、一般の意識は男女平等にほど遠いものであったのに、このような岩田先生ならびに岩田事務所の雰囲気はありがたいものだった。」
(昭和61年4月25日付 朝日新聞鳥取版/「華やぐ女たち」佐賀千恵美著より引用)
戦後復興期
1945年~
門弟弁護士の活躍
戦争の惨禍によって、日本経済は荒廃し、戦後深刻な危機に見舞われました。三井、三菱等の財閥の解体、財界人等の追放が行われた状況下で、訴訟事件、法律鑑定の依頼も減少し、岩田事務所も暫くの間、苦難の道を歩まねばなりませんでした。
また、岩田宙造弁護士は、太平洋戦争終戦直後の東久邇宮内閣に司法大臣として入閣するなど、政治活動を本格化させて、弁護士活動を休止しました(注)。そのため、戦後の岩田事務所は、事実上、岩田宙造弁護士の門弟の各弁護士により運営されました。
そうした各弁護士の努力により、日本経済の復興とともに、岩田事務所の訴訟事件、意見書作成等の依頼も増加したことから、昭和20年代後半には、門弟弁護士において弁護士を採用するようになり、また、岩田事務所内において各自の「室」を持ち、岩田事務所の名のもとに共同して弁護士活動を続けていくようになりました。
戦後の復興期を経て、都市の整備もすすみ、丸の内の赤レンガ街、いわゆる三菱村も取り壊され、新しい近代的なビル街に生まれ変わることになりました。これに伴い、岩田事務所も昭和37年(1962年)に三菱仲14号館9号の赤レンガ造りの建物に別れを告げ、旧丸ノ内ビルヂング(丸ビル)5階(561区~565区の5室)へ移転しました。当時在籍した岩田事務所の弁護士は、5室総勢14名でした。
(注)昭和6年(1931年)には貴族院勅選議員に任じられ、その後内閣顧問や行政査察使を同時に兼任しました。
岩田合同法律事務所へ
1966年~
社会的重要事件への尽力
昭和41年(1966年)に岩田宙造弁護士が死去し、岩田事務所は「岩田合同法律事務所」に名を改めました。「岩田合同」には、岩田宙造弁護士の直弟子及び孫弟子達が合同して構成する法律事務所という意味が込められていました。現在では企業法務を専門とする法律事務所がその名に「合同」を用いる例は少なくなりましたが、この当時は当事務所に続いて、企業法務を主たる業務とする法律事務所が事務所名に「合同」を採用する例が見られました。
また、昭和40年代から昭和50年代にかけては、日本経済の高度成長の歪みの現れとして大気汚染による公害等、種々の社会的問題が惹起され、同時に、新たな大型訴訟事件が発生した時代でもあります。
その当時から平成の初めにかけて、当事務所が担当した著名裁判事件としては、新潟地震による昭和石油精油所火災に基づく保険金請求事件、石油カルテル刑事・民事事件、田子の浦製紙ヘドロ事件、ロッキード事件、伊達火力発電所操業差止事件、サリドマイド薬害訴訟、川崎大気汚染公害訴訟、水島大気汚染公害訴訟、名古屋南部大気汚染公害訴訟などが挙げられます。当事務所はこれらの重要事件において、被告企業を代理して適正な解決に向け尽力しました。
また、商法(会社法)関係では、会社と取締役の間の間接的な利益相反取引についての取締役会決議の必要性や取引の効力についての最高裁大法廷判決、株主総会での取締役の説明義務に関し一括回答の適法性が認められた判決など、今日の会社運営の根幹にかかわる重要判例の生成に貢献しました。
業務の多様化
1985年~
フルサービスを提供する
法律事務所へ
プラザ合意(昭和60年、1985年)後の日本経済の急速なグローバル化の進展、バブル経済の崩壊、金融の自由化(いわゆる金融ビッグバン)といった日本企業を取り巻く経済環境の激変により、当事務所の業務内容や体制も大きく変貌することになりました。
例えば、商法(会社法)分野においては、従前より提供してきた多数のクライアント企業に対する経営上の法的助言、株主総会に関する助言・臨席、意思決定機関等の関与が必要となる重要なコーポレート・アクションに関する助言などに止まらず、株式買い占め事案への対応やいわゆる主要目的ルールの形成の契機となった事例等に関与してきました。
平成の時代に入ってからは、取締役の善管注意義務に関する助言をはじめとして広くコンプライアンス及びコーポレートガバナンス全般についての助言や規程作成等を行うことが多くなりました。さらに、企業の統合・再編では、合併、株式譲渡や営業(事業)譲渡による大型のM&Aに関する助言、デューディリジェンス(買収監査)及び契約交渉等の実務が増加しました。金融法分野においても、金融機関による新たなファイナンス手法や金融商品等が増えるにつれて、ファイナンス・スキームやレギュラトリーに関する助言やドキュメンテーション等の多様なリーガルアドバイスを提供する機会が拡大しました。
このような業務の拡大に伴い、当事務所の所属弁護士数も次第に増加していきました。
バブル経済崩壊を端緒とする1990年代の金融危機においては、金融機関の破綻に伴う処理銀行の設立、破綻金融機関の事業・営業譲渡、その後の各種法的処理に深く関与しました。
また、大手金融機関の不良債権処理に関しては、裁判手続などを通じた債権の保全・回収にとどまらず、取引先の再建を巡って金融機関に対するリーガルアドバイスを提供しました。なお、金融機関の適切な債権管理回収のため、平成11年(1999年)にいわゆるサービサー法が施行された後には、弁護士が同法に基づきサービサー(債権管理回収会社)の取締役に就任するなど経営的観点も含めた債権回収政策全般への関与を継続しています。
そして、平成8年(1996年)には、旧丸ノ内ビルヂングの建替えに伴い、事務所は一時期、三菱ビルに移転しました。
事務所創立100周年
2002年~
グローバル時代への対応
事務所創立から100周年に当たる平成14年(2002年)に新しい丸の内ビルディング(丸ビル)が竣工したことにより、当事務所は、再度、丸ビルに事務所を移転させました。
21世紀が幕を開けたこの頃は、大型の争訟分野においては、高度成長期から企業側代理人として数多く関与してきた環境訴訟などに加え、クラス‧アクション型訴訟・住民運動型訴訟といった複雑な類型の訴訟や、企業間の大型紛争等の対応が求められるようになりました。また、企業統合・再編手法が多様化したほか、その後も「大立法化時代」といわれるほど、会社法、金融商品取引法、独占禁止法等の主要法令等の制定・改正等が相次ぎました。さらに、企業における法令遵守や適切な企業統治・コーポレートガバナンスの重要性が強く指摘されるようになるとともに、株主代表訴訟等のリスクが増大するに従い、内部統制システム、グループガバナンスの確立等が重要な経営事項となり、当事務所においてもこれらに関わる法的助言が求められる機会が増加しました。
世界に目を向けると、リーマンショックに起因する世界金融危機や、その後の欧州通貨危機といった厳しい経済環境に見舞われる一方で、アジア諸国・BRICs等の新興国市場の台頭によって、生産拠点としてだけではなくマーケットとして当該市場の成長を取り込む必要性が増すなど、ビジネス環境の著しい変化が生じました。当事務所においても、依頼者の事業活動におけるグローバル化の進展に伴い、国際的な係争案件・倒産案件・コーポレート案件・ファイナンス案件や、海外競争法や腐敗防止法(FCPA等)に係る当局対応案件等においてリーガルアドバイスを提供する機会が増えました。そのような中、当事務所では、所属弁護士を海外留学に積極的に派遣するとともに、中国法弁護士の加入、さらには、中国で企業法務を扱う大手法律事務所(上海市金茂律師法律事務所)との提携などを通じて、これらの案件に対応してきました。
企業の伴走者として
2012年~
変化する企業法務のニーズに対応
失われた20年やデフレからの脱却を目指し、第二次安倍内閣は、いわゆる「3本の矢」からなる経済政策(アベノミクス)を打ち出しました。三本目の矢である成長戦略に当たる「日本再興戦略(平成25年(2013年)6月)では、産業の新陳代謝の促進、雇用制度改革・人材力の強化、科学技術イノベーションの推進、世界最高水準のIT社会の実現、海外市場獲得のための戦略的取組等が掲げられ、その実行のために、コーポレートガバナンス強化を図るための会社法改正(平成26年、2014年)、マイナンバー法制定(平成25年、2013年)、働き方改革関連法案、データ保護のための不正競争防止法改正等、様々な法改正がなされました。
また、フィンテック・IT分野の発展(AI、仮想通貨、メタバース)など、既存の法律や制度に捉われない新しいビジネスを始める企業も多くみられるようになりました。
さらに、企業は海外市場獲得のためにグローバル展開を加速し、その際に、競争法規制、データ保護規制、人権侵害防止など、海外の法律の域外適用への対応も必要となりました。
このように成長戦略を実現するための企業活動を行う際に、企業法務においては、その適法性を確保するために、経営陣に対して、迅速に法的リスクや解決策を示す役割が求められるようになりました。
当事務所は、このような企業法務のニーズに応えるべく、各分野における専門知識・経験を高めるとともに、特に専門的な対応を要する人事労務分野、租税分野、知的財産分野、渉外分野において、プラクティスチームを立ち上げました。また、渉外分野に関しては、世界的な法律事務所のネットワークであるTerraLexにも加盟しました。
さらに、この時期、ビジネス環境や企業倫理に関する考え方の変化や企業のガバナンス強化に対する意識の高まりにより、長年隠れていた不祥事が発覚したり、従前あまり問題視されることがなかったことも不祥事と評価されることが増えました。
当事務所においても、事前予防としての危機管理や事後的対応としての不正調査の業務を多数扱い、社会の価値観の変化に企業が対応できるよう提言や再発防止策の策定を行いました。
さらに、発行会社側に立った企業価値向上への取組、買収対象会社やその独立委員会への助言、発行会社側に立ったプロキシーファイト、アクティビストから提起された訴訟等への対応、日本版ウルフ・パック(特に仕手筋ウルフ・パック)が強く疑われる事案への対応も数多く経験し、様々な形態の「企業防衛」に向けた対応に奮闘しています。
令和元年(2019年)末以降世界を襲った「コロナショック」により、世界中の事業・市場を取り巻く環境が激変しました。それに加え、令和4年(2022年)2月に発生したロシアによるウクライナ侵攻の影響も相俟って、世界経済の先行きのみならず、我が国を取り巻く安全保障環境は不透明感を増しているといえます。このように、社会・経済環境が劇的に、かつ国際的規模で変化する時代は今後も続いていくことが予想されます。これに伴い企業活動や企業の在り方の根幹に大きく影響を与える法改正が今後も行われていくことが見込まれます。
さらなる伝統と革新へ
2022年~
120周年とこれからの岩田合同法律事務所
令和4年(2022年)に当事務所は創立120周年を迎えました。
いかなる時代においても、変化に迅速かつ的確に対応し、十分な体制で法律問題を解決すべく、当事務所では、所属メンバー個々人の日々の研鑽はもちろんのこと、所内での知識共有化を通じた組織力強化に重点を置いてきたことに加え、辻丸国際特許事務所との業務提携、弁理士法人IGIP岩田合同国際知的財産事務所の設立(令和4年、2022年)、札幌オフィスの開設(令和5年、2023年)など、弛まぬ姿勢で常に体制の充実を図っています。また、令和2年(2020年)には、かつての「室」を統合し、さらに陣容を拡大し、令和5年(2023年)には、所属する弁護士の人数が100名を超えました。事務所規模の拡大と共に、当事務所は、様々な依頼者からのあらゆる相談に対応するために所属メンバーの多様性の確保にも努め、多様なバックボーンを有する所属メンバーがその能力を最大限に発揮することができるよう互いの意見、価値観を尊重することを大切にしています。所員一人ひとりが一層の研鑽を積み、伝統を踏まえつつ、加速する時代の要請を的確にとらえ、「伝統は革新の連続である」ことを常に念頭に置き、社会から期待される法律事務所を目指します。
当事務所は、依頼者との信頼関係に基づき、依頼者の課題を把握し、解決することを通じて、依頼者の長期的かつ健全な発展に、事務所一丸となって貢献します。